2016年11月04日

サブタイトルなしでは検索不可!『周―理想化された古代王朝』

♪殷周東周春秋戦国〜(アルプス一万尺のメロディで)
で覚える中国の王朝。今も覚えてるわ〜
今回読んだ本はその歌の2番目に出てくる古代中国の国家「周」の通史
周―理想化された古代王朝 (中公新書) -
周―理想化された古代王朝 (中公新書) -

周の後半の春秋戦国時代は孔子がいたり逸話がいっぱいあったり
周の最初期は漫画にもなった封神演義で有名なんだけど、
この本はその中間、語られることが特に少ない西周の時代について紙幅を多く割いているので大変興味深い
ちなみに同時代に対する俺の認識はこんなもん。

screenshot.14.png

まあみんなだいたい同じ感じじゃね?(ジャンプ脳)

この時代になると歴史書(同書で伝世文献と呼ばれる)の記載が少なくなってくるので、この本では金文などの同時代に書かれた記録などを大量に引用して補足している。これ、今まであんまりみたことがなかったんですっげぇ面白かったんですよ。
そう金文な。濃密金石文という名前のブログを2006/02/22から10年半続けてるんだけど、ここにきて初めて金文なんてものを取り扱うことになりました。すげぇや!なんでこんなブログ名にしたんだよ!(答え:適当)




通史(辛い)

周の通史を扱っているということなんで、勃興期〜最盛期〜衰退期〜滅亡後まで幅広く書かれているんだけど、周がイケイケで他地域を圧倒していたと思える記述は最初の80ページ目、本全体の1/3くらい。
あとは周の権限を細切れに明け渡す冊命儀礼あり、暴君が追放されてしばらく王位がなかった共和の政あり、挙句の果てに後継者争いの隙をつかれて異民族の犬戎に追いやられ、東周に遷都→春秋戦国時代発生など、凋落の歴史に大量のページが割かれていて何か読み進めるのが辛い

とはいえこの凋落が始まった時代にこそ周の独自性が現れ始めたのも事実。
最盛期(書内では「西周前半期II」)まで周王は軍事と祭祀の最高権力者として君臨していたんだけど、この政治形態は殷と大して違いはなく、周王が祭祀王としての影響力を弱め、臣下の貴族に役職なり権限なりを明け渡すようになったあたりが周らしさとなってくるそうな。
こういうのが後に孔子などが理想とした周の姿になっていくんだろうなー。だから無駄なプロセスじゃなかったんだよー。
って思って自分を励まして読んでた。

周の衰退の周辺のなぜ?

前節での説明のとおり、周は

  • 祭祀王の凋落
  • 暴君の治世と追放
  • 異民族の攻撃による東遷

など種々のイベントが襲ってきて衰退した。なんでこんなに不幸な目に合いまくったんだろう?周りが強くなったのかな?

周の祭祀王の地位が失われたのは4代目昭王の時代、南国の楚への侵攻に失敗したあたりからだそうな。
軍事力が疑われたらその神格も疑われるってのは、同じ昭の字を持つ日本の昭和天皇だって似たようなもんだからなんとなくわかるんだけど、じゃあ何で周の攻勢はここで潰えたの?っていうのはよくわからない

東遷の憂き目の原因、異民族犬戎の攻撃にしてもがある。このときには後継者争いの隙を突かれたという記述が同書にあるんだけど、その後春秋時代には、犬戎の支配地に堕ちたと思われた西周の土地を、新興異民族国家の秦があっさり支配下に置いている。何事?
書内では「東遷によって無秩序地帯となった関中平原に秦が入り(6章p181)」とかさらっと書いてるけど強敵犬戎がいるよね。奴らどうなった

この楚と秦、いずれも戦国時代には広大な領土を持った強国として周囲を恐怖のズンドコに陥れるようになるんだけど、
そもそも西周の中盤から終わり時代には何の説明もなく強国になっていて何だこれという思いしかない。

楚については鉄を持ち始めたからかな?と思ったりもした。中国独自で製鉄を始めたのはちょうど楚のあたりだし時期的にも春秋戦国時代からだそうな
http://93011404.at.webry.info/201208/article_16.html
なるほどな。しかし西周の昭王の時代から楚は強国だったわけで、別にこの時代に画期的な何かがあったわけでもない。長江文明の担い手だから昔から豊かだったのかな?

そして秦の方はなぜ強かったのかもっとさっぱりわからん。秦が強国になったのは戦国時代、商鞅の政治改革によるものだと言われてる。周の東遷の400年くらいあとじゃん。
こいつらには鉄があったわけでもないし、なんで犬戎を蹴散らすことができたんだろ?不思議だ。

周の理想化のなぜ?とその答え

同書の終盤、6章あたりに儒家の出現の章がある。こちらはなぜ現れたのかが明確に説明されてて面白かった。
儒家が得意としていたのが、西周後半期Iのあたりの風習の再現。衰退が始まった時代なんだけど、冊命儀礼のような周独自の風習が出てきたあたりだ。
春秋時代の紀元前600年頃から、儀礼用の道具の分布が変化してきた。それは

  • 下級貴族 : 各地方独自の儀礼用道具
  • 上級貴族 : 昔の西周を再現した道具

というように、身分ごとに差が出てくるようになった。(ただし秦は除く)この上級貴族が執り行う昔の西周の儀礼に精通していたのが儒家で、権威ある西周っぽい儀式がしたいっすという各国の上級貴族の要望に答えるべく勢力を延ばしていったんだって。おーなるほどー。
ちなみに秦はどうなってたのかっていうと下級も上級も西周風で変わりがなかったとのこと。これは上下関係が厳しくなかったわけではなく、地方独自の儀礼用道具=西周風儀礼道具で区別がなかったからだという。まあ西周の故地を秦が領有してるからわからなくもないね。

そう考えると秦が儒家に冷たかったのも無理ない気がする。奴ら別に儒家の持っている西周の知識とかいらないもんな。そんな秦が中国を統一した結果、焚書坑儒とかやられて儒教は衰退の一途をたどったみたいなんだけど前漢の武帝期(前141〜87)にいきなり再評価、以降国教として栄えていくことになる。ここらへん同書の終章にかかれているんだけど、周以降の話だからか描写が時間加速してるのでうっかり見逃しそう。

ただ、漢で再評価された儒教の教えは西周の宗教観そのままかっていうと当然そうでもなくて、漢の武帝から見て600年、孔子から見ても300年は昔の風習を昔の科学力で再現したものだから大分違うものになってたとか。
貴族の呼称は違うし「孝」に道徳的な意味はなかったし大学は勉強の場じゃなくて宗教儀礼の場所だったし・・・とかとか。
まあ600年も離れてたらそうなるよね。これにより周は理想化されていった。おお、同書のサブタイトルに見事つながった。なかなか鮮やかな構成だね。

以降本を読んでの感想・妄想(書内では語られていないこと)

それにしても思うのは、西周が滅んでから春秋戦国の300年で、中国は急速な勢いで神権政治から離れていったんだなーって感想。
現代の科学力で再現した西周は神権政治が色濃く残っていて、戦国初期に儒教が再現した西周は超自然的な概念をだいぶ排除してる。
諸子百家が現れて色んな思想を試すようになった中国では、西周で重んじられていた超自然の力のようなものはリアリティを得られなくなったんだろう。

一方その頃日本はどうしてた?漢が終わり三国志の時代になっても、卑弥呼は亀甲占いで世の中を治めていた。まだ神権政治だったな。
では春秋戦国に広まった理想化された西周の思想は日本には広まらなかったんだろうか?というとそうでもない。どうも日本の前身、倭国ではこの時代の中国の思想風習の痕跡らしきものが残っているようなのだ。

どういうことか。例えば倭人の外交官は中国と接する時、伝統的に大夫という役職を自称していた。これは儒家が間違って再現した西周の貴族の呼称だ。
更に倭人は太伯の子孫を名乗っていたけど、これは周の初代国王武王の親の親の兄にあたる人物だ。事実ではないだろう。ただ周の特別扱いっぷりと祖先をなるべく遡ろうとする姿勢は儒教の影響を色濃〜〜〜〜く感じる。

更に状況証拠的には、春秋が終わり戦国が始まった紀元前400年ごろは弥生時代の始まりの時期だ。稲作や弥生土器と一緒に、役職名やら古代の伝承やらが紛れて入ってきたんじゃないだろうか?
その一方で文字が入ってくるのはしばらく後だったし、超自然概念の排除もまだ先だ。諸子百家のようなものが受け入れられるには、発展が足りなかったんだろうな。

なんかとっちらかった感想だけど、以上で!
posted by LoyalTouch at 22:08| Comment(0) | TrackBack(0) | 読書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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